「それなら、おばあちゃんが私に託してくれた腕輪を返して。代々家に伝わるものなの。今、祖母が病気で、多額の治療費が必要なのよ」
それが石川瑠那の考えていた二つの道だった。――離婚して慰謝料をもらい、祖母の治療に充てるか。――あるいは、嫁入りのときに渡された家伝の腕輪を返してもらい、それを売って資金にするか。
「腕輪が欲しいですって?!あんたは畑中家に嫁いで五年、衣食住すべてウチで面倒見てもらっておいて、まだ嫁入り道具を持ち帰る気?言っておくけど、あの時、恥知らずにも兄さんのベッドに忍び込み、さらに子まで流したからこそ、ウチが仕方なく受け入れただけよ!自分を何様だと思ってるの!」
階段を駆け下りてきたのは、畑中颯太の妹・畑中美咲(はたなか みさき)だった。その眼差しは毒を含み、瑠那を突き刺す。
瑠那の顔色がさっと変わる。あの出来事は、彼女にとって消えない痛みだった。
もしなければ、彼女は大学をちゃんと卒業し、こんなに早く畑中颯太に嫁ぐことはなかっただろう。
「颯太……祖母が病気で、お金が必要なの。あなたもずっと離婚を望んでいたでしょう?一千万円でいいわ。すぐにでも署名するから」
声はほとんど懇願に近かった。一千万円など、颯太にとっては端金のはずだ。
当時の醜聞は寧崎市でも大きく取り沙汰され、颯太は世間の圧力に押される形で彼女を娶った。だがこの五年間、一度たりとも彼女に触れたことはなく、彼がどれほど嫌悪しているかは明らかだった。
それでも瑠那が耐えてきたのは、祖母が結婚を気にかけ、亡き祖父も「畑中家に入れば守られる」と願っていたからだった。
しかし周囲の目には、それはただの「しがみつき」としか映らなかった。
「バシッ!」
鋭い音と共に、平手打ちが瑠那の頬を捉えた。頭が横に弾かれ、耳の奥がジンジンと鳴る。
怒りに燃える美咲。あの事件以来、彼女もずっと陰口を叩かれてきた。
誰もが「完璧な颯太さんが、なぜあんな女を妻に?」と。その苦々しい記憶が今も彼女を苛立たせる。
「兄さんと離婚したいんでしょ?!さっさと署名しなさい!腕輪は私が持ってるわ。サインさえすれば、返してあげる!」
不意の一撃に、本来の瑠那ならやり返していた。
だが今は祖母の命がかかっている。あの腕輪は高価で、売れば治療費になるはずだ。
美咲の手首に、その腕輪が光っているのを見た。この数年、彼女がそれを得意げに身につけて歩き回っていたのも知っている。寧崎市中を探しても、同等の品は二つとないだろう。
瑠那は自分の頬を気にする暇もなく、ペンを掴んで署名した。胸の内にようやく解放感が広がる。――これが今夜の目的だった。
颯太は無表情で離婚協議書を手に取り、自分の名をサラリと書きつける。これで、長年の厄介者を追い払える。
かつて幾度も離婚を望んだが、祖父が「石川家に義理がある」と庇ったため果たせなかった。
だが今回は瑠那の方から切り出した。祖父も文句は言えまい。――これで、この婚姻は終わる。
「サインは済ませたわ。腕輪を返してくれる?」
手を差し出す瑠那の目の前で、美咲の瞳に悪意が光った。
次の瞬間――
家宝の腕輪は床に叩きつけられ、粉々に砕け散った。
祖母を救う唯一の希望も、同時に。
「やめて!!」