第7話:血の代償
「ダーツの的?」
雫の声が震えた。蓮の言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「そうだ」蓮が立ち上がり、壁際のダーツボードを指差した。「あそこに立て。俺がダーツを投げる。一発ごとに二十万円だ」
綾香が手を叩いて笑った。
「面白そう!やってみなさいよ」
周囲の客たちも興味深そうに身を乗り出した。誰も止めようとしない。むしろ、娯楽として楽しんでいる。
雫は立ち上がり、ダーツボードの前に歩いた。
「月城さんはお金さえくれれば、それでいい」
感情のない声で呟く。額から流れる血を拭おうともしない。
蓮の顔が歪んだ。雫の金銭への執着が、彼の怒りをさらに煽る。
「壁に背中をつけろ」
雫は言われた通り、壁に背中をつけて立った。ダーツボードの真下で、完全に無防備な状態だった。
蓮がダーツを手に取った。
「百倍返しだ」蓮が呟いた。「お前が俺を傷つけた分、百倍にして返してやる」
最初のダーツが放たれた。
シュッ!
雫の頬をかすめ、壁に突き刺さる。頬に一筋の血が流れた。
「一発目、二十万円」蓮が冷たく言った。
雫は微動だにしなかった。痛みを感じているはずなのに、表情一つ変えない。
二発目。
今度は雫の肩をかすめた。衣装が裂け、肌に赤い線が走る。
「四十万円」
三発目は耳元を通り過ぎた。雫の髪が数本切れて、床に落ちる。
「六十万円」
観客たちが歓声を上げた。まるでサーカスでも見ているかのように、手を叩いて楽しんでいる。
蓮は四発目のダーツを構えた。今度は雫の心臓を狙っている。
「次は外さない」蓮の目に狂気が宿った。「心臓に向けて投げる」
雫の体が硬直した。しかし、それでも壁から離れようとしない。
蓮の腕が振り上げられた——
「正気か!」
突然、部屋のドアが勢いよく開かれた。
由美が駆け込んできた。雫の顔の傷を見て、顔色を変える。
「月城!」由美が蓮を睨みつけた。「何をしている!」
蓮の手が止まった。
「雫の友人か」
「そうよ!」由美が雫の前に立ちはだかった。「雫がお金のためにこんな仕打ちに耐えてるって聞いて、飛んできたの」
由美の目に涙が浮かんだ。
「月城、あんたは本当に知らないの?」由美が叫んだ。「五年前、雫は無理矢理別れさせられたのよ!あんたの母親がいなければ——」
「やめて!」
雫が必死に叫んだ。由美の言葉を遮ろうと、彼女の腕を掴む。
「何も言わないで!」
蓮の目が鋭くなった。
「お前は何か隠しているのか!」
雫は首を振った。
「何も隠していません」雫が立ち上がった。「約束の四百万円をください。そうすれば、二度とあなたの前には現れません」
蓮は冷笑した。
「やっぱり、お前は金しか目に入ってない」
ポケットから小切手を取り出し、雫の足元に投げつけた。
「四百万円だ。持って失せろ」
雫は小切手を拾い上げた。振り返ることなく、部屋を出て行く。
蓮は再び得体の知れない怒りを感じていた。綾香が彼の腕に寄り添う。
「雫のことが忘れられないの?」
「あいつはこの世で一番嫌いな人間だ」蓮が吐き捨てた。
しかし内心では、復讐心が燃え上がっていた。
「お前が二千万円のために俺を捨てたことが、どれだけ愚かな決断だったか思い知らせてやる」
——————
雫のアパートで、由美が傷の手当てをしていた。
「なぜ真実を言わないの?」由美が涙を流した。「あなたが蓮の病気を治すために貯金を使い果たしたこと、なぜ黙ってるの?」
雫は静かに答えた。
「もう彼に迷惑をかけたくない」
「明日、耳の治療のために出発する」雫が続けた。「耳が聞こえなくなりたくない」
これまで堪えていた涙が、ついに溢れ出した。声を上げて泣く雫を、由美は抱きしめた。
——————
翌朝。
雫は小切手を現金化し、空港へ向かった。
出発ゲート前で、彼女は首にかけていたネックレスを外した。五年前、蓮がくれたものだった。
ネックレスをゴミ箱に投げ入れる。
「さよなら、蓮」
スーツケースを引きながら、後ろを振り向くことなく出発ゲートに入って行く。
しかし雫は知らなかった。
空港の向こう側で、蓮が彼女の姿を見つめていることを——