これまで何度か彼女と一緒に過ごしたが、彼はいつも自制していた。
だが、この夜ばかりは抑えきれなかった。
ひとつは酒が強すぎたせい。
もうひとつは、彼女が泣きじゃくる姿があまりにも男の本能を刺激したからだ。
泣けば泣くほど、彼は荒々しくなる。
穂香はすっかり参っていた。
こんな話題、平然と語れるはずもない。
「……そんなに酷いのか?」
彼女が黙って窓の外を見つめていると、彰人はすっと腕を伸ばし、彼女を自分の膝の上へ抱き上げた。
手が大胆に動く。
「な、なにしてるの!?」
驚いて手首を掴む蘇禾に、彼は低く一喝する。
「動くな!」
「何をするつもり……」運転席を慌てて見やると、
隔て板が上がって後部座席は完全な密室になっていた。
「ちょっと見せろ」彼は落ち着き払った声で言う。
「清水彰人!」彼女は怒り、顔を赤らめた。
見せるって?
何をよ!
怒りと羞恥で顔を赤らめる彼女に、彼は鼻で笑った。「心配なら叫べばいいさ。海斗に聞かせてやれ。」
穂香は固まり、無意識にもう一度運転手の海斗を見た。
その瞬間、彼の手はさらに深く入り込む。
「やめて!触らないで!」
彼女は激怒し、本能的に彼の手を引っ張った。
「全身、俺が触ってないところなんてあるか?」
必死に抗う彼女を捕らえ、彼は挑発的に囁いた。
耳まで熱くなるような言葉。
だが彼女はもう限界だった。
胸の奥が煮えくり返り、思わず彼を力いっぱい突き飛ばす。
――そして反射的に。
ぱんっ。
乾いた音と共に、彼の頬に手のひらが当たった。
傷は浅い。だが屈辱は深い。
男の表情が一瞬で凍りつく。
空気が凍りついた。
穂香は一瞬呆然とした。
彼女はわざとではなかった、それは反射的だった。
「……俺に、手を上げたな?」
低く絞り出す声に、蘇禾は息を呑んだ。
彼の顔は、今まで誰にも叩かれたことがなかった。
彼女が初めてだった!
「私は—」
言葉が途切れた。
次の瞬間、胸の奥に反抗心が芽生える。
――そうよ、打ったわよ。
どうだっていうの?
どうせ離婚するんだ。これ以上、黙って虐げられる理由なんてない。
そう考えると、穂香は罪悪感を感じなくなった。
彼女は背筋を伸ばし、冷たい視線で彼を見返した。
その態度に、彰人の心の揺らぎは跡形もなく吹き飛んだ。
「……停めろ」
隔板を下ろし、冷然と運転手の海斗に命じる。
車が停車すると、彼は吐き捨てた。
「降りろ」
彰人は怒鳴った。
穂香は言い返すことなく、鞄を掴んで車を降りる。
――降りろ?
望むところよ。出てやる!
彰人はわざと海斗にすぐに発車させなかった。彼は穂香が頭を下げるのを待っていたからだ。
謝れば、彼女を許してもいい。
以前、彼女はいつも車の外で可哀想に彼を見ていた。
彼に弱みを見せて。
だから彼は自信を持っていた、今日も例外ではないだろうと。
しかし—
穂香はすぐ降りた。
すっきりとして、一片の未練も惜しさも見せずに。
一度も振り返らなかった。
彰人はその後ろ姿を睨みつけ、
顔は闇よりも黒く染まっていった。
……
穂香は荷物を片付け、シャワーを浴びてから寝る準備を整えた。
身にまとっているのは赤いシルクのナイトドレス。背中が大きく開いたその姿は、意図したものではない。
ただ、この二年――彰人に気に入られるために揃えたのは、どれも境界ぎりぎりの艶やかなものばかりだった。
鏡台の前に腰かけ、ドライヤーで髪を乾かす。
雪のように白い背中と細い首筋が、無防備に空気へさらされている。
そんなとき、彼が寝室へ入ってきた。
視界に飛び込んできたのは、腰のくびれまで露わになった彼女の後ろ姿。
白磁のような肌が真紅に映え、
目を奪うほどの衝撃だった。
その瞬間、彼の脳裏にあの夜の光景がよみがえる。
泣き震える彼女を、容赦なく貪った――
忘れられない記憶。
以前は単なる生理的な必要性だったが、あの夜、彼は一度味わったら忘れられない感覚を覚えた。
穂香のこの魅惑的な姿を見て、男の心の鬱屈は一掃された。
車の中で離婚を叫んでいたくせに、今はまたこんな姿を見せつける。
口では拒絶しながら、体は正直な女。
ドライヤーの音に気づかれないまま、
冷たい指先が彼女の背へ触れた。
「あっ!」
驚きで飛び上がる穂香。
振り返った先には、彰人の手が宙に止まっていた。
二人の視線が交わる。
気まずい空気が一気に流れ込む。
「……何しに来たの?」
怒りを隠せない声に、彼は鼻で笑った。
「俺の部屋だ。入って悪いか?」
「笑わせないで。あんたの部屋は向かいでしょ」
結婚して二年、同じベッドで眠った夜は数えるほど。
彼はいつも事が終われば客間か外で過ごし、
この主寝室に留まったことなどなかった。
「だから?」
「ここは私の部屋よ!」
彼女が背筋を伸ばし、真っ向から抗う姿勢を見せると、
彰人の黒い瞳が細められる。
冷気を帯びた巨体が一歩、また一歩と迫る。
また一歩と迫る。
後ずさる彼女の腰が鏡台にぶつかり、
逃げ場を失った。
両腕で壁のように囲まれ、胸板と鏡台に挟み込まれる。
男の匂いが濃厚に迫り、呼吸を奪う。
顔をそむけると、
白く滑らかな首筋が無防備にさらされる。
血が騒ぎ、彼の奥底から獣じみた衝動が湧き上がる。
噛みつきたい。
「この家も、この部屋も……そしてお前も、全部俺のものだ。」
耳もとに低く囁き、熱い吐息が肌を撫でる。
「だから俺は――いつだって好きにできる」
言外の意味を悟り、
穂香の頬が一気に熱くなる。彼を強く突き飛ばし、叫んだ。
「触らないで!」
荒れる鼓動を必死に押さえ込み、心に言い聞かせる。
彼の言葉に心を乱されないようにと自分に言い聞かせた。
――惑わされるな。
――この人は、もう価値のない男だ。
「フッ……」
彼は嘲るように笑い、彼女のナイトドレスを一瞥する。
「その格好で、俺を誘ってないとでも?」
穂香は目を伏せて自分を見た。
半分露出し、妖艶で魅惑的。
視線に耐えられず、
彼女は慌ててシルクのガウンを羽織った。
けれどその仕草さえ、彼の目には挑発にしか映らない。
「――月曜、九時。区役所で待つ」