――やめて。
声にならない叫びが、喉の奥で凍り付く。
――いかないで。
伸ばしたはずの指先が、空を切る感覚。
純白の翼が、血に濡れていく。
美しい歌声が、苦悶の喘ぎに変わっていく。
そして、私の世界から、色が消える――。
「はっ……!」
荒い息と共に、浅い眠りの底から意識が浮上し、心臓が警鐘のように激しく胸を打つ。
額に浮かんだ冷や汗が、こめかみを伝って枕を濡らしている。
窓のカーテンの隙間から差し込む、冷たい早朝の光。
見慣れた自室の豪奢な天蓋。
(また、あの夢)
私は、シーツを強く握りしめていた白い指の力を、ゆっくりと抜く。
ゆっくりと、震える右手で、右の瞼を覆う。
左目に映る世界は、朝日に照らされた、色彩豊かな豪奢な部屋。
だが、指の隙間から覗く右目の視界は、光と影だけが支配する、色あせた古い写真のようなモノクロームの世界。
いつもの、ちぐはぐな現実。
それが、悪夢の記憶を、より鮮明に現在へと引きずり出す。
(ダメね、弱気になっているわ)
脳裏に蘇るのは、ある女性の歌声。
私の世界から半分の色を失った日の追憶――。
◇
「エリアーナ、この星の名前は何だったかしら?」
母の細い指が、窓の外の夜空を指す。
その手は、やけに冷えている。
「……アモール」
私が答えると、母は弱々しく微笑んだ。
「よくできたました。あなたは、本当に賢い子ですね」
ベッドの上、白いシーツに沈む母の顔は、蝋のように白かい。
呼吸のたびに、胸が小さく上下する。
その間隔が、日に日に長くなっていく。
私は、ただ母の手を握りしめることしかできなかった。
「エリアーナ」
母が、私の名を呼ぶ。
「あなたは、優しい子でいてください。それが、私の……母さんの……最後の、お願いです」
「最後なんて、嫌!」
私は、母の手を両手で包み込む。
「ごめんね……本当に、ごめんなさい」
母は、苦しげに顔を歪めた。
その目から、一筋の涙が頬を伝う。
それが、母が私に見せた、最後の表情だった。
翌朝、母は目を覚まさなかった。
「クライネルト家の娘が、人前で涙を見せるな」
眠りについた母の前で、父は私にそう言った。
「お前の世話をする侍女なら、また用意すればいい。お前が気に入っている様子だったから面倒をみてやっていたが、本来ならもっと早くに入れ替える予定だった」
「……侍女?」
私は、父の言葉の意味が理解できなかった。
「そうだ。あの侍女は、よく働いた。だが所詮、雇われの身に過ぎん」
父の声は、使い古した道具の処分を語るのと同じ、淡々とした響きだった。
「お前の本当の母親は、別邸で過ごしている。そのうち、挨拶に行かせよう」
世界が、音を立てて崩れる。
刺繍の仕方を教えてくれた、その手。
古い詩を読み聞かせてくれた、その声。
星の名前を1つ1つ、優しく教えてくれた、その時間。
それらは全て――雇われた侍女の、業務だったのか。
(いいえ、違う)
母は、確かに私を愛してくれていた。
あの涙は、嘘じゃない。
だが、この世界は、そんなことを認めない。
広大な公爵邸の中で、否、このあまりにも倫理観の壊れた世界で、私は完全な孤独に沈んだ――。
◇
それから、季節が巡り、春が来た。
庭の薔薇が咲き始めた頃、父が上機嫌で私に言う。
「エリアーナ、異国の珍しい鳥を飼い始めた。お前にも見せてやろう」
連れて行かれたのは、庭園の奥。
薔薇のアーチを抜けた先に、ひっそりと佇む古びた石造りの塔。
蔦が絡まるその塔は、おとぎ話に出てくる囚われの姫の住処のようだった。
厳重に鍵がかけられた鉄の扉。
父が、懐から取り出した鍵で、それを開ける。
重い扉が、きしむ音が鋭く鼓膜を打つ。
薄暗い部屋の中、窓から差し込む一筋の光の中に――彼女はいた。
純白の翼を持つ、女性。
「これは、鳥人だ。隣国では、天人などと呼ばれて崇められているらしい。手に入れるのに苦労した」
コレクションを自慢するような父の声が、遠くで響く。
私は、ただその女性を見つめていた。
彼女の翼は、雪のように白く、光を受けて淡く輝く。
しかし、その美しい首には、冷たい鉄の首輪が嵌められている。
彼女の瞳は、窓の外――遠い空を、ただ静かに見つめていた。
「気に入ったか? ならば、時々見に来るがいい。どうせ、暇を持て余しているのだろう」
父はそれだけ言うと、塔を出ていく。
部屋には、私と彼女だけが残された。
不意に、彼女が口を開く。
「……怖くないの?」
その言葉には、私への気遣いの色が出ている。
「私は、獣人よ。人間のあなたが、こんな場所で二人きりになるなんて」
「怖くない、よ」
私は、首を横に振った。
「あなたは、私を傷つけたりしない」
「どうして、そう思うの?」
「だって、あなたの目……悲しそうだもの」
彼女は、小さく息を吐いた。
そして、初めて微笑んだ。
「あなた、変わった子ね。名前は?」
「エリアーナ」
「私は、ラーラ。よろしく、エリアーナ」
それが、私たちの出会いだった。
◇
それから、私は毎日のように塔へ通った。
最初は、ただ静かに本を読むだけ。
ラーラも、窓辺で翼を休めているだけ。
けれど、少しずつ、私たちの間に言葉が生まれた。
「ねえ、ラーラ。私ね、実は――」
ある時、私は思い切って、前世のことを語った。
遠い国、日本という場所。
高いビルと、たくさんの人と、色とりどりの光。
そして、ある日突然、この世界に生まれ変わってしまったこと。
「だから、私はいつも、どこか他人事みたいな気がするの。この世界が、本当に私の居場所なのか、わからなくて」
ラーラは、私の話を最後まで黙って聞いていた。
「そう。あなたは、遠い場所から来たのね」
彼女は、子供の空想を笑わなかった。
ただ、静かに頷いただけ。
「でも、エリアーナ。今、あなたがここにいることは、本当よ」
「……うん」
「辛いことも、悲しいことも、全部本当。だから、きっと、嬉しいことも本当になる」
その言葉が、ひどく温かくて。
私は、涙が溢れそうになるのを必死にこらえた。
「素敵な話を聞かせてくれたお礼。私からのお返し、受け取ってくれる?」
そう言って、ラーラが歌を歌いだす。
それは、母が歌ってくれた子守歌によく似た、物悲しく、しかしどこまでも優しい旋律――。
ラーラの声は、鳥のさえずりのように清らかで、美しい。
歌い終わったラーラは、一枚の白い羽を抜いて、私の髪に挿す。
「これ……」
「翼があれば、どこへでも行けるわ。だから、エリアーナ。あなたもいつか、自由に空を飛べるように」
ラーラは、優しく微笑む。
私は、その羽を大切に握りしめた。
だが、そんな心休まる日々も、長くは続かない。
ある日、塔を訪れると、ラーラが床に倒れていた。
「ラーラ!」
私は駆け寄る。
彼女の首輪が、赤黒く変色していた。
「大丈夫よ……ちょっと、具合が悪かっただけ」
ラーラは苦しげに息を吐き、震える手で首輪を掴む。
「何があったの?」
「……窓を、開けようとしたの」
窓?
「ほんの少しだけ、外の風を感じたくて。でも、それだけで――」
首輪が、彼女を罰したのだ。
私は、その冷たい鉄を見つめた。
これが、彼女を苦しめている。
これが、彼女の自由を奪っている。
「いつか、私が、それを外してあげる」
私は、小さな手を伸ばし、首輪に触れる。
(冷たい)
何故だかその瞬間、私は死に際の母の手を思い出した。
ラーラは、震える私の手をそっと包み込む。
「ありがとう。でも、無理はしないで」
彼女は、悲しげに微笑む。
まるで、それが叶わぬ夢だと、知っているように。
でも、私は諦めなかった。
いつか、必ず。
この首輪を、壊してみせる。
――しかし、その約束が果たされることは、なかった。