第2話:偽りの愛の言葉
「君がこの先ずっと見えなくても、俺はずっと君を愛してるよ」
零司の声は甘く、優しかった。葵を膝の上に座らせ、髪を撫でながら囁く言葉は、かつてなら心を温めてくれたはずだった。
「病院にもう二十億円追加投資する。必ず君の目を治してみせる」
葵は微笑んだ。視力が戻った今、零司の表情がはっきりと見える。その口元に浮かぶ笑みが、どこか空虚で機械的なことも。
「ありがとう、零司さん」
零司は葵を抱き上げ、ダイニングへと向かった。その腕に抱かれながら、葵は吐き気を堪えていた。この手が、つい数時間前まで別の女の肌を愛撫していたのだ。
ダイニングに足を踏み入れた瞬間、葵の心臓が激しく跳ねた。
テーブルには既に三人が座っていた。息子の蒼、そして――あの女。
女はバスローブ姿で、まるで女主人のように振る舞っていた。蒼は彼女の隣に座り、甲斐甲斐しく料理を取り分けている。
「お母さん、お疲れさま」
蒼の声は普段と変わらず優しかった。だが葵には、その優しさが恐ろしく薄っぺらに聞こえた。
「葵さん、こちらにどうぞ」
女が指差したのは、テーブルの端の席だった。まるで客人のような扱い。自分の家で、自分が疎外されている。
零司は葵を椅子に座らせると、何事もないように女の隣に腰を下ろした。
「今日は葵の好きな料理を作ってもらったんだ」
女が微笑む。その笑顔には、勝利者の余裕が滲んでいた。
葵は箸を手に取った。口に運んだ料理は、砂のように味気なかった。
「美味しい?」
零司の問いかけに、葵は頷いた。だが次の瞬間、目の前で信じられない光景を目にした。
テーブルの下で、女が零司の手を掴み、自分のバスローブの中へと導いていく。零司は抵抗するどころか、指を動かし始めた。
葵の妻の目の前で。
「うっ――」
葵は口を押さえて立ち上がった。胃の中のものが一気に込み上げてくる。
「葵!」
零司が慌てて立ち上がり、葵の背中をさすろうとした。
だが、その手が今まで何をしていたかを思い出すと、葵はぱっと手を払いのけ、冷たい声で一言放った。
「汚い」
零司の顔が困惑に歪んだ。
「葵……どうしたんだ?俺が何をしたって言うんだ?」
その演技じみた傷ついた表情を見て、葵はさらに嘔吐感に襲われた。
寝室に逃げ込んだ葵は、シャワーを浴びながら過去を振り返っていた。
以前、零司のオフィスで盗み聞きした会話が蘇る。
『お前は所詮、遊びだ』
零司はあの女にそう言った。だが同時に、『葵の目が俺を幻滅させている』という前提も否定しなかった。
鏡に映る自分の顔を見つめる。新婚の夜、零司が誓った言葉が脳裏に響いた。
『もしこの誓いを破ったら、天罰が下っても構わない』
家政婦三十人、高級品の数々、点字出版局――零司が与えてくれた物質的な豊かさを思い返す。
そして葵は、ひとつの結論に達した。
零司は自分を愛していなかったわけではない。ただ――心をふたつに分けてしまったのだ。
その瞬間、葵の中で何かが決定的に変わった。被害者でいることを、彼女はやめたのだった。