江口紗雪は相羽美月の不機嫌な口調に気づき、慌てて付け加えた。「ご、ごめんなさい、考えすぎたわ。あの女がシンシアなわけないわよね。それに、腕前なら美月だって病院で一番じゃない。シンシアが来たからって何よ。美月は綺麗で家柄も良くて、医術も超一流。未来の桐生の奥様なのよ。あなたの輝きを覆い隠せる人なんて、いるわけないわ」
紗雪のおだてに、美月の表情が少し和らいだ。
病室の外。
「用件は何」白石希は不機嫌に言った。
「その口、どうにかならないのか。まともに話せないのか、お前は」
「まともな話し方?桐生社長にとっての『まとも』って何?昔みたいに、あなたにへりくだって、言いなりになって、馬鹿みたいにあなたの指図を待つこと?私はあなたの従業員?それとも奴隷?どうしてあなたの言うことを聞かなきゃいけないの?」
立て続けに問い詰める。言葉と共に、目頭が熱くなった。以前は、彼に尽くしすぎた。何事も慎重に、彼の言うことには百パーセント従い、反論一つしなかった。その結果、白石希はいつでも簡単に潰せる、か弱い存在だと彼に思わせてしまったのだ。
彼は、自分がまだ昔の白石希のままだと思っているのだろうか。彼を好きだという気持ちを利用して、好き勝手にいじめられるとでも。
これからは、そうはさせない。
男の深い瞳には怒りが満ちていて、彼女をじっと見つめていた。その眼差しは彼女を粉々にしてしまいそうだった。
希は背筋を伸ばす。それは、男への宣誓のようだった。もう、怖くない。
男は両の拳を固く握りしめ、歯の隙間から絞り出すように言った。「白石希、大したもんだ」
希の体は微かに震えていたが、瞳の奥は氷のように冷え切っていた。男が病室のドアを乱暴に開けて入っていくのを、ただ見つめていた。
男の姿が消えると、ようやく希は息をつくことができた。額には、びっしりと冷や汗が滲んでいた。
この男は怖すぎる。希はこの先の人生で彼と関わりを持ちたくないと思った。
そう思いながら、希は身を翻してその場を去ろうとした。だが、二歩も歩かないうちに、彼の秘書である笹井正がボディガードを連れて行く手を阻んだ。「お、奥様……いえ、白石様。社長は、まだお帰りになっていいとは」
希は深く息を吸い込み、胸の内に燃え盛る怒りをどうにか鎮め、静かに笹井を見つめた。
笹井はごくりと唾を飲んだ。以前の奥様とは、何かが違う。その視線は、まるで自分を八つ裂きにしそうだ。
「笹井秘書」希は淡々と呼びかけた。
「は、はい!」
「私……!」希は再び深呼吸した。「お手洗い!今!すぐだよ!」
「……」笹井は一瞬呆然とし、すぐに後ろのボディガードに命じた。「白石様をお手洗いまで護衛しろ」
「……」希は危うく息が止まりそうになった。「護衛?」
「はい、護衛です」笹井は至極真面目な顔で答えた。
はっきり言え。これは監視だろうが。
希は奥歯をギリリと鳴らし、彼に向かって親指を立てた。「笹井正さん、あんたも大したもんだわ」
希は怒りに任せてトイレに駆け込み、力なくドアに寄りかかった。背後には二人のボディガードが影のように付き従っている。これでは逃げる隙などありはしない。
もう、どれくらいの時間が経っただろう。二人の子供たちは、どうしているだろうか。
希が途方に暮れていたその時……
「ママ。」甘い声が小さく希の耳元で響いた。
希の心臓が、どきりと跳ねた。「楓?」
「ママ!」楓がトイレの個室から飛び出し、希の胸に飛び込んできた。
希は信じられない思いで娘を抱きしめた。喜びと、そして不安が胸をよぎる。「楓、飛行機に乗らなかったの? どうしてここがわかったの?」
「お兄ちゃんが連れてきてくれたの。ママ、忘れちゃった? お兄ちゃんが、ママと楓が迷子にならないようにってくれた腕時計、GPS機能が付いてるんだよ」楓はそう言って、手首につけたピンクの腕時計を振って見せた。
「GPSを頼りに、あの悪いパパの家を見つけたの。お兄ちゃんがどうやってママを助けようか考えてたら、ママのGPSが病院に移動したから、私たちも来たの」
希は自分の手首の腕時計を見た。あの子に付けてと言われてから、ずっと外していなかった。まさか、こんなに役に立つとは。
「楓、お兄ちゃんは?」
「お兄ちゃんは外にいるわ。ママ、安心して。今、ママを助ける方法を考えてるから。そうだ、ママ、お兄ちゃんが言ってた。ママが連絡してこないのは、きっとスマホを取り上げられちゃったからだって。これ、ママのスマホ。ちゃんと隠してね」
希は感動で胸が張り裂けそうだった。この二人の子供は、本当に自分の救世主だ。スマホがあれば、ずっと動きやすくなる。希はスマホを受け取ると、すぐに隠した。
「ありがとう、私の宝物。楓と颯は、本当にママの救いの神様よ。でも、ママは自分で逃げる方法があるから、あなたたちがここにいるのは危険すぎるわ。先に義母さんのところへ戻ってくれる? ママも後から必ず合流するから」
桐生蒼士がこのフロアにいる。もし彼に颯を見られたら、終わりだ。彼は必ず子供たちを奪うだろう。桐生家が、自分たちの血を引く子を野放しにしておくはずがない。
颯も楓も、彼女の命そのものだ。失うわけにはいかない。危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「でも、ママ……」
ドアの向こうから足音が近づいてくる。希は楓の小さな口をそっと塞ぎ、人差し指を唇の前に立てて、静かにするよう合図した。そして、楓を連れて個室の中に身を潜めた。
「ママ?」
「しーっ!」
希は声を潜めた。「楓、ママの言うことを聞いて。お兄ちゃんと一緒にここを離れるの。ママに少し時間をちょうだい。必ず、自分であなたたちと合流する方法を見つけるから。いいわね?」
「ママが心配だよ」
希は娘を腕に抱いた。「楓は、ママを信じて」
希は娘をしばらく抱きしめて慰め、名残惜しさを振り切るようにして、楓を先に颯の元へ行かせた。
楓はとても聞き分けの良い子だった。希と離れるのは寂しいし、心配でたまらないようだったが、それでも小さな足で駆け出していった。
その小さな背中を、希は胸が張り裂けるような思いと、誇らしい気持ちで見送った。
それから希は、何事もなかったかのようにトイレから出た。楓と颯が無事だとわかっただけで、希の心はずっと軽くなった。心配で塞ぎ込んでいた気分も晴れ、足取りも軽やかだ。
二人のボディガードを見ても、どこか好ましくさえ思える。希はにこやかに言った。「さあ、行きましょ。私を護衛して、元の場所まで送ってちょうだい」
二人のボディガードは顔を見合わせた。「一体、何かが起こったの?」
この女、大丈夫か? 入る前は、まるで俺たちを殺さんばかりの形相だったのに、トイレに行っただけでこの上機嫌。
女心と秋の空、とはよく言ったものだ。
希は軽い足取りで廊下を戻っていく。口からは、小さな鼻歌まで漏れていた。
突然……
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
この声は……
希は全身が凍りついた!
体中の血液が、逆流するのを感じた。