第8話:雷鳴の向こう側
結衣はソファに座り、スマートフォンの画面を見つめていた。
魅音のSNSには新しい投稿が上がっている。夕日を背景にした海辺の写真。男性の影がシルエットで写り込んでいるが、結衣には誰だかすぐに分かった。
『最高の夜になりそう♡』
挑発的なハートマークが添えられている。
結衣は画面をスクロールした。他にも写真がある。レストランでの食事、ホテルのロビー。どれも怜と一緒に過ごしていることを匂わせるものばかりだった。
その時、スマートフォンが震えた。
怜からの着信だった。
結衣は一瞬躊躇したが、通話ボタンを押した。
「結衣?」
怜の声が聞こえる。背景には波の音が微かに響いていた。
「今夜は嵐になるらしい」
かつてのように優しい声だった。
「戸締りはちゃんとして、雷が鳴っても怖がるな」
昔、結衣が雷を怖がっていた頃、怜はいつもこう言って慰めてくれた。
結衣の胸に懐かしさが込み上げる。過去の記憶が蘇った。新婚の頃、嵐の夜に怜の腕の中で震えていた自分。「俺がいるから大丈夫だ」と囁いてくれた温かい声。
「ありがとう」
結衣は小さく答えた。
「出張、順調?」
「ああ、まあな」
怜の声に微かな動揺が混じる。
「明日には帰る予定だ。君の好きなお土産を——」
その時だった。
「怜!早く!花火が始まるよ!」
電話の向こうから魅音の明るい声が響いた。
結衣の手が凍りついた。
「あ……」
怜が慌てたような声を出す。
「結衣、これは——」
「早く寝ろよ」
怜は一方的に電話を切った。
無機質な「ツーツー」の音が響く。
外では雷鳴が轟いていた。やがて稲光が夜空を裂いたとき、結衣の涙は窓の外の雨と一緒にこぼれ落ちた。
――
一夜明けた朝、結衣は庭に出た。
嵐は去っていたが、庭は無残な姿を晒していた。かつて怜と一緒に植えた薔薇の花びらが地面に散らばっている。折れた枝、倒れた鉢植え。
結衣は散った花びらを拾い上げた。
「留められないものは、無理に掴もうとしなくていい」
呟いた言葉は、風に運ばれて消えていく。
不思議と悲しみは湧いてこなかった。代わりに、冷静な諦観が心を満たしている。
もう決まった。
――
結衣はスーツケースを寝室に運び、荷物を詰め始めた。
必要最小限の衣類、大切な書類、母の形見のブローチ。それ以外は何もいらなかった。
思い出の品々を見つめる。怜との写真、二人で選んだ食器、旅行先で買った小物。
結衣はそれらを一つずつ手に取り、ゴミ袋に放り込んでいった。
写真立てが床に落ち、ガラスが割れる音が響く。
その時、スマートフォンが鳴った。
怜からのメッセージだった。
『全部君のために選んだプレゼントだ。気に入ってる?』
添付された写真には、見覚えのないジュエリーが写っている。
結衣は画面を見つめたまま、何も返信しなかった。
パソコンを開き、保存していた監視映像のファイルをUSBメモリにコピーする。オフィスでの怜と魅音の密会、宴会での二人の親密な様子。すべてが記録されていた。
証拠は十分だった。
結衣は婚約指輪を指から外し、リビングのテーブルに置いた。その隣にスマートフォンも置く。
玄関の鍵を棚に戻し、振り返ることなく家を出た。
足取りは軽かった。三年前に離婚が成立していたことを思い出し、面倒が減ったとすら感じていた。
外では新しい朝の光が差し込んでいる。
結衣は歩き続けた。どこへ向かうのか、自分でも分からないまま。