清葉が住居に戻ったのは、すでに明け方だった。一晩中眠れず、彼女はいくつもの可能性を頭の中で描いていた。だが、岩田家に戻って最初に出会ったのが岩田彰人だったことも、さらにその彰人が健太を使って自分を脅すことになるとは、まったく予想していなかった。
今の彼女はすべてを失い、利用価値などどこにもない。彰人の考えがまったく読めなかった。
うつらうつらと眠りに落ち、次に目を覚ましたのは翌日の昼過ぎだった。携帯の電池は切れており、充電器を探して繋げると、電源を入れた途端に不在着信がいくつも表示された。電源を入れて数分も経たないうちに、また電話が鳴った。
彼女が応答すると、使用人の声が聞こえた。「奥様、五小姐様とお電話がつながりました」
「清葉」原田さんが電話を受け取り、焦りと怒りの入り混じった声で言った。「帰ってきたのに、なぜ私に知らせなかったの?」
清葉は沈黙した。南洋に戻ったことを誰にも知らせていなかったのに、たった一晩で彰人が彼女の消息を突き止めた。そして、原田さんまでそのことを知っている。それが誰の仕業なのか、考えるまでもなかった。
原田さんの声は、最後にはどこか挫けたように聞こえた。
「ごめんなさい」清葉はかすかに呟いた。それ以外に、実の母親に言えることなどなかった。
「もう使用人に部屋の準備をさせたわ。今日から岩田邸に戻りなさい。岩田旦那様はここ数年スイスで療養しているし、彰人が異を唱えなければ、岩田叔父の方は私が話を通しておくから問題ないわ」原田さんは早口でそう言い、受話器の向こうでは使用人に新しい家具の手配を指示する声がかすかに聞こえた。
清葉はしばらく黙り、低い声で尋ねた。「健太は、病気なの?」
その瞬間、原田さんの声が一気に大きくなった。
「とにかく今日中に岩田邸へ戻りなさい。この数年、あなたは何の連絡もなく出ていったのよ。私と健太を見捨てて! 私たちがどんな思いで過ごしてきたか、少しでも考えたことあるの?」
清葉は、南洋を追い出されたのだという事実を、わざわざ思い出させる気にもならなかった。
「午後に行く」彼女はかすかに自嘲を込めて笑い、そう言って電話を切った。
岩田邸に着いたのは、すでに夕食を過ぎた頃だった。清葉は簡素な荷物を客室に置き、控えめながらも贅沢な紫檀の家具をそっと撫でていた。その時、原田さんが果物の盛り合わせを持って入ってきた。ようやく、ここが現実なのだと実感が湧いた。
母娘の再会に、涙も抱擁もなかった。喜びはあっても、淡く、静かだった。原田さんはフルーツをテーブルに置き、彼女を見つめながら言った。「帰ってきてくれてよかったわ。時々思うのよ。おばあさまが亡くなったあと、あなたを岩田邸に連れてきたのは正しかったのか間違っていたのかって」
「清葉、あなたはお母さんを恨んでいるの?」原田さんは周囲に誰もいないのを確かめ、清葉の手を握った。切実な眼差しで見つめ、声を詰まらせながら言った。「お母さんが悪かったのよ。本当にごめんなさい」
清葉は手を引き、四十を過ぎても美しく、贅沢な暮らしをしている母親を見つめた。そして、静かに答えた。「……恨んでなんかない」
「今回帰ってきたなら、もうどこにも行かないで。あなたのこれからのために、ちゃんと考えてあげるから」原田さんは安心したように微笑み、彼女の手を軽く叩いた。
清葉は唇の端をわずかに上げたが、何も言わなかった。伏せた瞳の奥に浮かんだ嘲りを、誰にも気づかせないように。彼女にはもう、未来というものがなかった。
母娘は少し言葉を交わしただけで、原田さんは慌ただしく部屋を出ていった。清葉は簡単に片づけを済ませると、身体を丸めて絨毯の上に横たわった。外では使用人の静かな足音、母の声、そして庭の木々を揺らす春の風の音が微かに聞こえた。
彼女の幼い頃の生活は、とても質素なものだった。田舎で祖母と二人きりで暮らし、家は貧しく、小さな頃から料理を覚えた。祖母の家の裏には大きな池があり、そこにはレンコンが一面に植えられていた。収穫の季節になると、祖母と一緒に泥の中からレンコンを掘り出し、洗って町へ売りに行った。
あの頃、祖母と過ごした日々があったからこそ、きらびやかな南洋で、あらゆる裏切りや傷を受けても、耐えることができたのだ。
岩田邸の生活は規律正しく、夜九時を過ぎると、屋敷には夜灯だけが残った。清葉は外の音が静まり返るのを待ち、時計を見てから部屋を出た。彼女の部屋は一階の庭に面した位置にあり、元は倉庫だった場所を改装したものだった。静かで、どこか隔絶された空間。
脇の間には夜灯がともり、柔らかな光が広がっていた。清葉は部屋の中を一巡し、以前の応接室が和風の茶室に改装され、暖炉が新しく設置されているのに気づいた。恐らく、それは彰人の指示だったのだろう。この数年、岩田家の旦那様はスイスで療養中で、岩田信治(いわた のぶはる)が屋敷の管理をすることは滅多になかった。実際に岩田家を動かしているのは、長男である岩田彰人だった。
岩田邸で迎えた最初の夜は、当然のように眠れなかった。しかも、彼女は重い不眠症を抱えており、深夜一時を過ぎなければ眠れない。清葉はパソコンを手に取り、庭の隅の静かな場所に座ってメールを確認していた。
座って間もなく、鉄の門が開く音がした。誰かが、いや、複数の足音が敷地に入ってきた。