孝宏は依然として手を離さず、彼女を見つめながら、瞳の奥に笑みを浮かべた。
「どうした?そんなに顔が赤い。熱でもあるのか?」
彼が本当の理由を分かっていながら、わざとこんなことを言うなんて――意地悪すぎる。
彼は顔を傾け、彼女の耳元に唇を寄せ、真面目ぶった声で囁いた。
「まさか、昨夜のことを思い出してるんじゃないだろうな――」
一瞬で、詩織の顔は火がついたように真っ赤に染まる。
どうして彼は、こんな場所で平然とそんなことを口にできるのか。
恥知らず!
耐えられなくなった詩織は、思い切り彼を押し出し、玄関口へと追いやった。
そして視線を拓也に向け、慌てて頭を下げる。
「ごめんなさい、拓也。今日はここまでにしましょう。仕事の話は、改めて日にちを決めて」
これ以上、この男をここに置いておくわけにはいかない。
次にどんなとんでもないことを言い出すか分からないからだ。
外に出ると、
冷たい風が吹き荒れ、空はどんよりと曇り、小雨まで降り始めていた。
孝宏は彼女の手をつかんだまま、車のドアを開ける。
「乗れ」
拒否の余地を与えない口調だった。
詩織は渋々ながらも、結局は車内に身を滑り込ませる。
彼女には分かっていた――この男には逆らえない、と。
反抗すればするほど、彼はより強引になるのだから。
孝宏も車に乗り込み、ドアを閉める。
密閉された空間に、じわじわと熱がこもり、妙な空気が漂い始める。
彼は顔を横に向け、彼女を一瞥した。「さっきの男は誰だ?随分と親しそうだったな。」
「しかも『また今度』なんて言ってたが?」
言葉の端々に苛立ちが滲んでいた。
詩織は黙って顔を背ける。
もう彼のものではないのに、どうしていちいち詮索されなければならないのか。
だが、彼を怒らせれば何をされるか分からない。
仕方なく、軽く答える。
「安心して。既婚者よ、子どももいる」
孝宏の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
どうやら、その返答には満足したようだ。
一方その頃――
少し離れた場所で、霞が黒い傘をさし、足を踏み出そうとしていた。
隣にいた雄大が慌てて腕をつかむ。
「マンションで見ただろ?あの女を突き飛ばしたこと、孝宏に問い詰められて、どれだけ怒られたか!」
「今回はお前が悪いんだ。孝宏は『きちんと謝れ』って言ってたんだから、素直に謝れ!」
霞は鼻で笑い、吐き捨てるように言った。「謝るですって?冗談じゃない!」
「何様よあの女!謝るくらいなら死んだ方がマシよ!」
雄大は小さく眉を寄せ、言いにくそうに口を開いた。
「でもな……調べてみたら、あの女は孝宏の初恋だったんだ」
その頃、車内では。
詩織がシートベルトを締めた時、
孝宏が無言で小さな紙袋を差し出した。
詩織は少し驚き、手を伸ばして受け取った。
「これ、何?」
孝宏は何も言わなかった。
袋を開けると、中には膏薬。
彼女は思わず手首の傷に視線を落とし、合点がいった。
「ありがとう…」
大した怪我ではない。普段なら気にも留めない程度だ。
だが今は、胸の奥がほんのり温かくなる。
――四年経っても、まだ自分を気遣ってくれるなんて。
孝宏は彼女を見つめ、脚を組み直しながら静かに問いかける。
「これからどこへ行く?」
詩織はムッとした顔で返事をせず、窓の外に視線を投げた。
せっかくの商談を台無しにされたのだから、機嫌などいいはずがない。
だが、彼はそんな彼女すら愛おしそうに見ている。次の瞬間、彼女の腕をぐいっと引き寄せ、そのまま膝の上に座らせた。
「ちょ、ちょっと、何をするのよ!」
彼は額を寄せ、低く囁く。
「男女のことを……少し、したくなっただけだ」
その眼差しは鋭く、獲物を逃すまいとする男のもの。
詩織は唇を噛み、必死に押し返す。
「また、くだらないこと言って……離して!」
「くだらない?」
「大人なんだから、何をしてもいいだろう?」
そう言いながら、彼女の冷たい手を包み込み、握りしめる。
「こんなに冷えてる……俺が温めてやる」
しかし詩織はびっくりしたして、彼が何か過激なことをするのではないかと恐れた。
彼女の不安げな表情に、思わず笑みがこぼれる。
「そんなに怯えるなよ。冗談だ」
「冗談だよ…」
そう言って彼女を解放し、何事もなかったかのように服の乱れを直す。
その切り替えの速さに、詩織は呆然とするしかなかった。
車が走り出し、沈黙のまま時間が過ぎる。
通りがかりの花屋の前で、孝宏がぽつりと口を開いた。
「白いバラが好きだったな。買ってやろうか?」
四年経っても覚えているなんて――少し意外だった。
けれど詩織は小さく首を振る。
「いいわ、要らない。」
そう言って瞼を閉じ、疲れたように息をつく。
孝宏も彼女の邪魔はせず、彼女が眠たいのだろうと思った。
彼は車を運転し続け、直接マンションに帰るつもりだった。
途中、小さなビジネスホテルの前で、
孝宏は無意識に一瞥し、何か見覚えがあると感じ、急いで車を止めた。
その時、彼の視線が外に向いた。
見覚えのある二人組が大きなスーツケースを抱えて中に入っていく。
孝宏は眉を寄せ、車を急停車させた。
「……何を見てるの?」詩織が不思議そうに尋ねる。
孝宏は数秒の沈黙ののち、真剣な顔で彼女に言い放った。
「詩織、俺と……ホテルに行かないか?」
「……は?」
「ベッドで続きをしよう」
「――っ!」
詩織は飛び上がるように身を起こした。
「真っ昼間に、よくもそんなことを堂々と言えるわね!」
しかも、まるで当たり前のような顔をして。
「どうだ? 本当はお前だって望んでるんじゃないのか?」
孝宏の声には確信めいた響きがあった。
「昨夜、お前はまだ物足りなさそうだった」
彼女が満足していなかった?
なんという言い草!
昨日はむしろ、彼が加減も知らずに求めすぎたというのに。
耳まで赤くしながら、詩織は叫ぶ。
「私が行きたくないって言ってるの! 行きたいなら一人で行けばいいでしょ!」
そう言ってドアに手をかけるが、
彼の腕が腰を絡め取り、そのまま抱き寄せられる。
「秦野さん、そんなに慌ててどこへ行く?」
唇にうっすら笑みを浮かべながら、彼は彼女の頬に優しく口づける。
――驚くほど、柔らかく、優しく。
「や、やめて……!」詩織は必死に制止した。「孝宏、忠告するわ。勝手なことはしないで!」