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第1話:偽りの幸福
[神凪(かんなぎ)刹那(せつな)の視点]
大晦日の夜。遠くから聞こえる花火の音が、静寂に包まれたリビングに響いている。
私は一人、ダイニングテーブルに向かって座っていた。目の前には真っ白な離婚届。五年間の結婚生活に終止符を打つための、たった一枚の紙切れ。
ペンを握る手が、わずかに震えている。
夫の九条(くじょう)冬弥(とうや)は、今夜も帰ってこない。「取引先と食事をしている」というメッセージが午後に届いただけ。でも、私は知っている。彼が誰と一緒にいるのかを。
氷室(ひむろ)美夜(みや)。冬弥の初恋の人。
息子の怜士(れいじ)も、冬弥と一緒だ。十歳になる息子は、私よりも父親の浮気相手を慕っている。それが、この家の現実だった。
花火の音がひときわ大きく響く。新年を迎える瞬間が近づいているのだろう。
私は深く息を吸い込み、離婚届の「妻」の欄に自分の名前を書いた。
神凪刹那。
これで、もう後戻りはできない。
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同じ頃、都心の高級レストランでは、九条冬弥が氷室美夜、そして息子の怜(れい)士と共に新年を迎えようとしていた。
「パパ、来年も美夜さんと一緒にいられる?」
怜士の無邪気な質問に、冬弥は優しく微笑んだ。
「ああ、もちろんだ。これから毎年、もう逃さない」
美夜は満足そうに微笑み、スマートフォンを取り出した。画面には、三人の後ろ姿を映した動画が映っている。
「刹那さんにも、新年の挨拶をしなくちゃね」
彼女は躊躇なく、その動画を刹那に送信した。
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[神凪刹那の視点]
スマートフォンが振動した。美夜からのメッセージ。
動画が添付されている。再生すると、花火を見上げる三つの影が映し出された。冬弥と怜士、そして美夜。まるで本当の家族のように寄り添っている。
「これから毎年、もう逃さない」
動画の中で、冬弥が美夜に囁く声が聞こえた。その声には、私が一度も向けられたことのない温かさがあった。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
私は立ち上がり、リビングの棚に飾られた家族写真を手に取った。結婚式の写真。怜士が生まれた時の写真。幸せそうに笑う私たちの姿が、今はひどく空虚に見える。
全部、偽物だったのだ。
冬弥にメッセージを送る。
「明日は墓参りだ」
これが、妻としての最後の義務。それが終われば、私は自由になる。
深夜過ぎ、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
冬弥の声に続いて、怜士の足音が響く。わざと大きな音を立てて、私を不快にさせようとしているのがわかる。
「まだ起きてたのか」
冬弥がリビングに現れた時、その顔には明らかな苛立ちが浮かんでいた。
「新年だから、お帰りなさいを言おうと思って」
「大げさだな。もう寝ろよ」
怜士が冷蔵庫を乱暴に開け、中身を漁り始める。わざと食器をガチャガチャと音を立てて。
「怜士、もう遅いから静かに——」
「余計なお世話だ!クソババア!」
怜士が振り返り、私を睨みつけた。そして、私の右手を見て、吐き捨てるように言った。
「指が三本しかないクソババアが!」
私は思わず右手を引っ込めた。薬指と小指のない手が、震えていた。
「怜士、そんな言い方は——」
「大げさだ」
冬弥が私の言葉を遮った。
「お前がいちいち構うから、怜士がああなるんだ」
「私が?」
「そうだ。お前と、あの女のせいで——」
私は言いかけて、口を閉じた。美夜の名前を出せば、また同じ言い争いになる。
「俺たちが帰ってきてやったんだから、感謝しろよ」
冬弥の言葉に、最後の何かが音を立てて崩れた。
私は署名済みの離婚届を手に取り、ウォークインクローゼットに向かった。扉に鍵をかけ、一人きりの暗闇に身を沈める。
外で食器の割れる音がした。
でも、もう関係ない。
私は離婚届を胸に抱き、目を閉じた。