夜明け前の森は、青い息をしていた。
葉脈の間に光が走る草、淡く光る小さな蝶の群れ、遠くで奇妙な鳥が短く鳴く。
指先で撫でれば薬効のある実がつやりと揺れ、湿った土は生き物の匂いを返す。
——そして、午前三時。森を割るように気圧の歪みが走った。
闇が白光に反転し、風が刃になって梢を断ち、遅れて来た轟音が地面を叩く。輪郭そのものが震えて、すべてが止まる。
静寂。
半径五百メートルの円だけが、色を失っていた。焼け跡というより、何かに「消された」さら地。焦げた匂いはあるのに煙はなく、灰すらない。
「……爆炎の調合薬。出力、想定の三倍」
黒髪の青年——ルーク・アロマティクスは、腰のベルトの薬瓶を指で確かめ、短く息を吐いた。十七歳らしい顔つきだが、今は少しだけ目つきが真剣だ。
「うわぁぁ!」
「森が——消えた!?」
「魔物が……いない!」
エルムベリー村の人たちが外縁から身を乗り出す。助かった安堵と、常識外の光景への戸惑いがいっしょになって声になる。
「お、お前さん……何者だ?」
「ありがてぇ、ありがてぇが、これは……」
老村長の手は感謝で震え、恐れでも震えていた。狩人は焼けた円の縁を測るように歩き、主婦は口を押さえる。
ルークは村人の方へ向き直る。
「皆さん、魔物は——」
喉で言葉が止まる。折れた枝も、倒れた影も、何も残っていない。群れだけ焼くつもりが、森ごと奪ってしまった。
脳裏に、白い実験室が一瞬よぎる。
前世——製薬会社の研究員、田中慎也だった頃。「効果抜群」と報告した夜、別の病棟で子どもが苦しんでいたこと。胸の奥で小さく引っかかる。
(また、狙いを外した)
「助かった!」
「うちの子が無事だ……!」
若い父が幼子を抱えて駆け寄る一方で、別の声も漏れる。
「でも、森は明日も要る」
「狩りは……どうする」
どちらも本音だ。感謝と生活の不安が並んでいる。
そこへ、村の奥から少女が現れた。
金糸の髪が夜明けの光を拾い、翠の瞳は焼け円の中心を見据えている。
純白のローブの胸元には三日月に薬草を組み合わせた聖女見習いの紋章。
リリィ・ホワイトヒールは焦げ土に膝をつき、そっと指先で触れた。
「すごい力ですね…」
顔を上げた瞳に恐れはない。ただ状況を見ている。
「でも……静かすぎます。風も虫の音も…」
村人が息を呑む。生命の気配が丸ごと消えた静けさ。
「消したなら、戻せばいい」
ルークは淡々と言った。視線が一斉に集まる。
「俺が森を再生させる薬を作ります」
「そ、そんなことが……」
「神でもあるまいし……」
ざわめきが走る。ルークは一歩前に出て、軽く会釈した。
「ルーク・アロマティクス。薬師です。やれるだけ、やってみます」
その瞬間、空気が少し締まる。
薬瓶を一つ取ったルークの目が、作業の目になる。
「土の栄養網は壊れてる。生命の紐を結び直して……土晶で根を——いや、星塩の方が早いか……」
独り言が止まらない。
調合モードに入った瞬間、ルークの人格が豹変する。
瞳が鋭くなり、口元に危険な笑みが浮かぶ。
「生態系の循環理論……現代薬学の応用で……ハハ、面白い実験だ……」
村人たちが後ずさりする。さっきまでの普通の青年が、今は得体の知れない何かに見えた。
「ルークさん」
リリィが彼の手に触れる。その瞬間、ルークの瞳に人間らしさが戻った。
「あ……すみません。調合のことを考えると、つい……」
「リリィ・ホワイトヒール。聖女見習いです」
少女は小さく会釈した。翠の瞳に責める色はない。ただ、深い理解があった。
「本当にできるんでしょうか。森を蘇らせるなんて」
「理論上は可能です。ただ……」
ルークは薬瓶を見つめる。
「一人では危険すぎる」
「なら、私が手伝います」
リリィの即答に、ルークが驚く。
「危険です。失敗すれば——」
「だからこそです」
リリィは微笑んだ。
「あなた一人では危うすぎます。それに……」
彼女は焼け跡を見回す。
「この静寂を、このままにはしておけません」
夜が明けると、焼け跡の中央で調合を始めた。リリィが隣で材料を整え、器具を渡す。村人たちは距離を取りながら見守っている。
「大地の結晶——いや、この土質なら星の塩を少量。霊樹の雫は二滴。温度は低めで……」
色とりどりの液体が小鍋で混ざり、虹色の蒸気が短く立つ。
「リリィ、霊樹の雫を二滴」
「はい」
透明な滴が落ちた瞬間、液がふっと緑に転ぶ。
「反応、良好」
ルークの声が少し速くなる。
「循環を起こして、逆流を抑制……」
そこで、彼は一拍置いた。
虹色の液体からごく弱い逆流の気配。ルークは試験用の小匙に一滴垂らし、匂いを嗅ぐ。
「味見は——」
リリィが眉を上げる。
「安全域。ごく少量」
ルークは舌で触れる程度に確かめた。喉に熱が走り、視界がちらつく。膝が少し崩れかける。
「ルーク!」
リリィが肩を支える。治癒の微光が指先から流れ込む。
「……逆流、軽度の幻覚と短時間の混乱。許容範囲。ありがとう、助かった」
息を整え、手を戻す。
村人の間に小さなどよめき。
「怖い」「いや、でも見てみろ」
「よし、いける」
ルークは完成した薬を大地に注いだ。
ひと呼吸、ふた呼吸——何も起きない。
「やっぱり無理……?」
誰かが呟いた次の瞬間、焦げた土に小さな緑が顔を出す。
一つ、また一つ。若木が立ち上がり、広がっていく。
中央から外へ、緑の波が走る。草、低木、広葉樹、針葉樹。音が戻る。小鳥のさえずり、羽音、葉ずれ。
半径五百メートルの円に、森が帰ってきた。
「森が……帰ってきた……」
老村長が涙を拭いた。
空気が変わる。濃い生命の気配が肌に触れる。
だが表情は複雑だ。
「神様みたいだ」
「いや、人の手でこんな……」
「助かったのは確かだ」
三者三様の声が混ざる。感謝と恐さが同じ器に入っている。
「まだ、完璧じゃない」
ルークは森を観察する目で言う。
「成長速度が速すぎる。長期の安定はこれから」
その言い方に、何人かが肩をすくめる。
「ルークさん」
リリィが彼の手を軽く叩いた。
「大事なのは、戻ったこと。みんな助かったこと、ですよ」
「……そうだな」
ルークは素直に頷き、短く笑った。調合の目ではない、普通の笑顔だ。
夜、村はささやかな祭りを開いた。
森の復活を祝う輪ができ、歌が流れる。けれど、ルークに近づく足は少ない。
「薬師様……ありがとうございました……」
老村長が深く頭を下げる。言葉は感謝だが、距離はまだ遠い。
祭りから少し離れ、二人は焚き火の明かりを見ていた。
「これから、どうしますか?」
「王都で疫病の噂がある。試す価値がある薬もある。行って確かめたい」
「疫病……」
リリィは小さく息を呑み、すぐに頷く。
「なら、私も一緒に行きます」
「危険だ。今日より難しい」
「だから、です」
彼女はまっすぐに言う。
「一人で突っ走らせません。私もいます」
ルークは少しだけ黙って、それからうなずいた。
「頼りにしてる」
「任せてください」
二人は復活した森を見上げる。月に照らされる梢。
——よく見ると、葉の一部に微かな異変がある。色の偏り。風の渡り方がわずかに違う。
「本当に、大丈夫かな」
リリィが小声でつぶやく。
「分からない」
ルークは正直に答える。
「俺の薬学はまだ途中だ。救うつもりで、壊すこともあり得る」
風が梢を鳴らす。警告にも、単なる夜の音にも聞こえる。
薬学は救済か、破滅か。
答えを探す旅が、ここから始まる。
朝の光がのぼる。村人は感謝と不安を胸に、二人を見送った。
二人は森に背を向けて歩き出す。背後で、静かな異変が動き出していることに気づかないまま
。
救済と破滅、その狭間を歩む旅が、今、始まる。