査問会の判決が下されたその夜、藤原家の屋敷は重苦しい空気に包まれていた。蓮麻呂は自室で荷物をまとめながら、明日の出発に備えていた。持参できるのは最小限の私物のみ。長年住み慣れた部屋ともお別れだった。
「若様……」
小菊が目を真っ赤に腫らして現れた。昼間の判決を聞いて以来、ずっと泣いていたのだろう。
「荷造りを手伝わせてください」
「ありがとう、小菊。でも、君まで涙を流すことはない」
蓮麻呂は優しく微笑みかけた。しかし、その笑顔の奥には深い悲しみが隠されていた。
「私は若様を信じています」
小菊は震え声で言った。
「若様が妖怪と契約を結ぶような方ではないことを」
「小菊……」
「だから、きっといつか真実が明らかになって、戻ってこられるはずです」
その純粋な信頼に、蓮麻呂の胸が熱くなった。この世界で、心から自分を信じてくれる人がいる。それだけで、どれほど救われることか。
「君の気持ちは嬉しい。でも、僕はもうこの家には戻れないだろう」
「そんなことありません」
小菊は強く首を振った。
「若様は必ず偉大な陰陽師になられます。そして、この家に栄光をもたらされるのです」
その時、襖の向こうから足音が聞こえた。重く、威厳のある歩調。道長だった。
「小菊、少し席を外してくれ。父上が来る」
「はい」
小菊は深く頭を下げて退室した。父と息子、二人だけの最後の対話が始まろうとしていた。
道長は部屋に入ると、しばらく無言で蓮麻呂を見つめていた。その表情には、複雑な感情が入り混じっている。
「すまない」
最初に出た言葉は、意外にも謝罪だった。
「父上?」
「今日の査問会で、お前を庇うことができなかった」
道長の声には深い後悔が滲んでいた。
「父親として、情けない限りだ」
蓮麻呂は父の苦悩を理解していた。政治的立場と家族への愛情の板挟みになった時、道長は政治を選ばざるを得なかった。
「お気になさらないでください。父上のお立場を考えれば当然のことです」
「当然……か」
道長は苦笑いを浮かべた。
「しかし、父親として、これほど辛いことはない」
道長は懐から小さな包みを取り出した。
「これを持って行け」
「これは……?」
「古い霊石だ。代々藤原家に伝わる秘宝の一つだが、お前に渡しておきたい」
蓮麻呂は包みを開いた。中には美しい青色に光る小さな石が入っている。触れた瞬間、豊富な霊力を感じ取ることができた。
「父上、このような貴重なものを……」
「お前にこそふさわしい」
道長は息子の肩に手を置いた。
「この石は、真に優秀な陰陽師にのみその力を示すと言われている」
「でも、今の僕は追放の身です」
「追放されようと、お前は私の息子だ」
道長の声に力がこもった。
「藤原の血を引く者として、誇りを忘れるな」
父の言葉に、蓮麻呂の目頭が熱くなった。政治的には息子を見捨てざるを得なかった道長だが、父親としての愛情は変わらずにあった。
「実は」
道長が続けた。
「今回の件について、私なりに調べてみた」
「調べる……ですか?」
「証拠品の出所、証人の身元、契約書の筆跡……全てが巧妙すぎる」
蓮麻呂は驚いた。父も陰謀の存在に気づいていたのだ。
「やはり、仕組まれたものだったのですね」
「間違いない。しかし、相手が巧妙すぎて証拠を掴めない」
道長の拳が握り締められた。
「政治的な立場上、公然と異議を唱えることもできない」
「犯人の見当は?」
道長は躊躇してから答えた。
「橘家が関与している可能性が高い。しかし……」
「しかし?」
「身内にも協力者がいる可能性がある」
その言葉に、蓮麻呂の血が凍った。身内とは、兄たちのことを指しているのだろうか。
「兄上たち……ですか?」
「確証はない」
道長は苦しそうに言った。
「しかし、お前の実力向上に対する彼らの反応は異常だった」
蓮麻呂は思い返した。確かに、兄たちの嫉妬は想像以上に深刻だった。それが陰謀への加担につながったとしても、不思議ではない。
「父上、僕はどうすればいいのでしょうか?」
「生き延びろ」
道長の答えは明確だった。
「鬼ヶ島は確かに危険な土地だ。しかし、お前なら必ず道を見つけられる」
「そんな根拠は……」
「根拠はある」
道長は微笑んだ。
「お前の本当の実力を、私は信じている」
その瞬間、蓮麻呂は悟った。父は全てを察していたのだ。隠していた実力も、現代科学との融合理論も。
「父上……」
「詳しくは聞かない」
道長が手を上げて制した。
「しかし、お前が特別な才能を持っていることは間違いない。それを信じて、新天地で花を咲かせろ」
父の信頼と期待が、蓮麻呂の心に勇気を与えた。追放という絶望的な状況だが、全てが終わったわけではない。
「分かりました。必ず、父上のご期待に応えてみせます」
「うむ。そして、いつか必ず戻ってこい」
道長は立ち上がった。
「その時は、堂々と藤原家の門をくぐるのだ」
父が部屋を出て行った後、蓮麻呂は霊石を大切に懐にしまった。これは単なる石ではない。父の愛と信頼の証だった。
翌朝の出発まで、あと数時間。蓮麻呂は最後の夜を、故郷への想いと共に過ごした。辛い別れではあったが、それは同時に新たな冒険の始まりでもあった。