彩音は足を止め、唇を噛み、言葉を残して情けなく逃げ出した。「彼女は私の命を救ってくれたの。もしあなたがお金だけが欲しいなら、私が払うわ。でも彼女を傷つけないで」
詩織は少し驚いた後、軽く笑い、カップを手に再び窓の外を見た。
この秋雨は急に降り始め、パラパラと落ちる雨粒はすぐに細かい線となって地面と壁を濡らし、水蒸気の層を立ち昇らせていた。
お人好しは馬鹿だけど、運はいいようだ。
誰かの目論見が外れることになるな……
8棟からやや離れた壁の向こうで、赤白の縞模様の斜面を流れる雨水が小川となって急流を作っていた。しかし下水道に流れ込む直前、ある「大きな物体」によってその道を塞がれていた。
「ゴホッ、ゴホッ……」
斜面の下に横たわっていた運転手は、次第に意識が戻り、雨水を数口吐き出した後、体を起こして座り込み、周囲を茫然と見渡した。
人気のない塀の側には多くの匂いのするプラスチック容器が置かれ、その上には「厨房ゴミ」「その他ゴミ」などと書かれていた。
彼から二歩離れた容器には「有害ゴミ」という四文字が大きく書かれていた。
くそっ、ここはどこだ?
なぜ自分がここにいるのか?
あのホームレスを連れて登録に行くはずじゃなかったのか?
なぜ突然ここに現れたのか?
運転手は怒って思い出そうとしたが、頭は真っ白で、まるで誰かに記憶の一部を突然掘り出されたかのようだった。思わず身震いし、すでに青白い顔がさらに青ざめた。
彼は白石家でもそれなりに見識のある男だった。はっと気づいて地面から飛び起き、顔の雨水も気にせず素早く携帯を取り出し、ある人物に電話をかけた。
「どうした?」嗄れた声には色気が混じり、まるで運転手の耳元で囁くようだった。
運転手はこの時、胸の高鳴りなど気にする余裕もなく、焦って受話器に向かって叫んだ。「お嬢様、白石知恵の側にコントロール系異能者がいるようです。もしかして白石社長が密かに人を雇ったのでしょうか?」
彼は自分の経験と推測をすべて話し終えると、電話の向こうの女は少し沈黙した後、無関心そうに言った。「小林(こばやし)家の跡取りの状況を注目しなさい」
運転手は足を止め、顔に疑問を浮かべた。「小林若様の精神力の波動はそれほど高くありません」
しかし女性の口調が急変した。「馬鹿者!知能指数200の天才が低い精神力を持つわけがないでしょう!小林成実(なりみ)のような愚か者だけが、真珠を石ころと間違えて捨ててしまうのよ」
運転手はすぐに姿勢を正し、顔色が冷たくなった。
まさかあの小僧が裏で自分を陥れていたとは。
運転手は歯ぎしりするほど憎んだが、完全に無視していたホームレスこそが元凶だったとは思いもよらなかった。
「お嬢様、小林若様の情報を戻しましょうか?」
「まだ彼に手を出してはいけない。私に計画がある」
「かしこまりました……」
運転手は一時的に心の憎しみを抑え、電話を切った。
あの小僧め、運がいいな。
***
「ハックション!」
小さな影がぐったりした様子でドアの外に立ち、知恵に少し雨に濡れた四角い箱を渡した。
知らぬ間に誰かの濡れ衣を着せられていたとは全く気付いていなかった。
小林洋介(こばやし ようすけ)は不機嫌な顔で知恵を見つめた。「次は俺に宅配便を取りに行かせるな」
知恵は笑顔でその小さな少年を大きく抱きしめた。「ありがとう、洋介」
洋介の目にはさらに嫌悪感が増し、あくびをして居間を見渡すと、さりげなく尋ねた。「また人を拾ってきたって聞いたけど?」
彼はとっくに8棟の監視カメラで詩織を見ていたが、どれだけ調べても彼女についての情報は何も見つからなかった。まるで突然現れたかのようだった。
だから知恵の宅配便を受け取るという口実で、この見知らぬ人物の正体を自分の目で確かめるためにやってきたのだ。
結局、知恵のような頭では何も考えられないから、二人の安全のために、知恵の周りに現れる不審人物を厳しく審査する必要があった。
試されていることに全く気づいていない知恵は振り返って居間を見た。「詩織さんのこと?彼女は映画を見てるわよ」
洋介は少し眉をひそめ、珍しく部屋の中に入った。「俺、まだ食事してない」
「え?また食べるの忘れたの?早く入って、彩音さんが今晩ご飯作ってるわよ」
洋介は彼女の小言を聞くのも嫌で、靴を脱ぐと、素早く居間へ向かった。
玄関を通り過ぎると、ふわふわのオフホワイトのソファに非常に美しい「男性」が斜めにもたれかかっていた。
詩織は風呂から上がったばかりで、肌は白くて赤みを帯び、さっぱりとした短髪にはまだ水滴が付いていた。彼女が着ている寝巻きは少し大きく、彼女の雰囲気とも合っていなかったが、詩織はそれを威厳を持って着こなしていた。
両腕をソファの背もたれに広げ、足を大きく開いた姿勢はあまりにも豪快だった。
美しい桃の花のような目が玄関の方をさっと見ると、背の低い、10歳ほどに見える少年が顔を赤らめ、眉をひそめて彼女を見ていた。
年は若いが、考え方が大人だね。
あれ?この精神力は……
詩織はもともとただ何気なく一瞥しただけだったが、少年から漂う微かな精神力を感じ、思わず彼をじっくり見つめた。
しかしすぐに視線を戻し、もう気にしなくなった。
良い素質だ。ただ、残念だが……
しかし洋介は彼女に非常に注目していた。彼の頭の良さをもってしても、目の前のこの女性を理解できなかった。
彼が一目で理解できない人物は全てレベルBの警戒人物としてリストアップされるが、目の前のこの人物は少なくともレベルAだった。
「詩織さん、こちらは小林洋介、お隣の弟よ。洋介、こちらは詩織さん、姫野詩織っていうの。私と縁があると思わない?」
洋介はこの名前に少し驚いた。
彼は以前調査した際、詩織の顔の特徴と桜州の住民データベースを照合しただけで、詩織という名前は知らなかった。
洋介の目に警戒心がさらに深まり、密かに詩織の警戒レベルをさらに引き上げた。
少なくともレベルSだ。
詩織の名前を利用して知恵に近づこうとしたとは、背後の人物は大きな目的があるに違いない。
ソファに座っていた詩織は、この12歳の少年がこれほど多くの考えを巡らせているとは思いもよらなかった。
「確かに縁があるわね。僕は小林洋介、初めまして、よろしく」洋介の礼儀は正しく、表面上の浅い笑顔を浮かべながら詩織に右手を差し出した。
詩織は目の前の爪が非常に整えられた指を見て、ようやく視線を洋介に向け、目を細めて左手を伸ばし、彼の手を軽く握った。
たった数秒の間に、彼女の指先に暖かい振動が伝わってきた。
普通の人なら気にも留めないだろうが、彼女の五感は普通の人より数十倍敏感だった。
詩織は何もせず、ただ痕跡を残さないよう洋介を観察した。
彼の顔は知恵よりもさらに幼く見えたが、その目は知恵に満ちていた。彼から放たれる精神力の強さから判断すると、この少年は成熟した心を持ち、知能指数は異常なほど高かった。
早熟な子供は混沌の時代によく見られるが、彼のように高い知能を持つ子供はめったにいない。
適切に導けば、彼女のような二人目になるかもしれない。
ただ……残念だが……
詩織は思わず少し惜しむ気持ちになり、何気なく尋ねた。「手に持っているのは何?」